あおとり倉庫
目は口ほどにものを言う

やっと報告書から解放された。おろちの添削地獄ももう慣れてきたが、それでも疲れるものは疲れる。解放されたばかりだが、明日には今出来上がった報告書を提出しないといけないからメルトキオのワイルダー邸に向かわなくてはならない。 この束の間の自由を堪能すべく、しいなは部屋を飛び出して、里の自分だけしか知らないお気に入りの場所に急ぐ。そこは里の端っこにある大木の上だった。 冷たい乾燥した風を受けながら、里全体が見渡せる枝まで登って腰掛けた。そしてため息をついて頬杖をついた。小指でそっと唇を撫でてみると、かさかさとした質感に思わず眉を顰める。そろそろ唇に軟膏が必要な季節か。 ふと空を見上げる。低い位置に浮いている鈍色の雲を見つけて眉を顰める。 (雷雲かな…) 雷にトラウマをフラッシュバックされて震えて泣くことはもうなくなっていた。とはいえ、精神衛生に全く影響されないかと言われればそうではない。完全にそれが払拭されたとはいえない。それに慰めてくれた小さな友達は存在の形を変えてもうそばには居ない。 (コリン……今はヴェリウスか…) 肌身離さず持っている形見の鈴をそっと手のひらの上に広げる。 チリン… 胸の前で強く握りコリンに祈る。それだけであったかくなって心強くなった。 (そういえば、これを拾ってくれたのって…) ゼロスだ。いつもの軽口と一緒に渡された記憶がある。 と、ゼロスの顔が浮かんだ時、しいなは飴を喉に詰めたように胸のあたりが苦しくなった。 今、ゼロスといえば、目下、しいなにとっての問題人物なのであった。 いやでもそのきっかけを思い出す。 ————- 先日、ワイルダー邸へ仕事で訪れた時、すぐ帰ろうとするつもりだったのに、なぜかあれよあれよという間に豪華な庭でゼロスとアフタヌーンティーをすることになったことがあった。 まだこの時は今より少し暖かく、外で過ごすにはちょうど良かった。最初は無理矢理に座らせられた席だったが、初秋の午後のひだまりもあって、しいなもゆっくりする気分になった。美味しいお菓子と軽食を食べながら、誰かと取り止めもない話をするのも久しぶりだったから、仕事詰めの日々の気分転換になって楽しくなってきていた。 そこまではよかった。 問題が起きたのは、目の前のお菓子を食べ終わった頃、口直しの紅茶を飲んでいた時のことだった。 「しいな、見ろよ。あそこのコスモス、セレスが育てたんだぜ?近くで見ないか?」 「コスモス?あぁ、ミズホじゃ秋桜って呼んでる花のことだね」 既にしいなの視界に入っていた花畑はセレスの努力の賜物らしい。なんでも去年はなれない土いじりにトクナガが自分がやりますと言っても聞かず、見事に失敗したが、今年は反省点を生かして咲かせたらしい。 「すごいだろ、一回の失敗から要因を分析して次にはもう成功させてんだ!さすが俺様の妹だよな」 こんなにシスコンでセレスのことをよく見ているのに、しいなのことを嫌っているのは見抜けないのがよくわからない。 咲き誇った経緯に関係なくしゃんと咲くその姿は美しい。 ゼロスに促されて花壇に近づいた。その美しいさを視覚だけでなく、嗅覚でも感じたかったから、中腰になってコスモスに顔を近づけた。 ゼロスは少し後ろに立って全体を眺めているようだった。 「へぇ、いきさつはともかく見事なもんだね」 しいながコスモスの甘い香りを楽しんでいると、びゅううと音が聞こえた。と同時に突風が吹いた。 野分のようなその風にコスモスたちは抵抗の術もなく分け倒される。 「わ!…花は無事かい?」 思わず腕で顔を覆っていたが、姿勢を元に戻して花壇を見る。 コスモスは変わらずそこで力強く自立していた。 「あ、無事だね」 セレスに苦手意識があるとはいえ、誰かが丹精込めて育てた宝物がダメになるのは見たくなかった。 「花は無事だけど、お前がすごいことになってる」 「え?」 「前髪がくしゃくしゃだし、あー花びらも何枚かついてんな、こっちこいよ」 そう言われて、前髪を直しながらゼロスの前に立つ。 頭頂にふわりとした感触を感じる。ゼロスが花びらを取ってくれてるらしいことはわかった。 しいなが衝撃だったのはその表情と手から伝わるなにかだ。 ゼロスはいつもの軽い笑顔ではなく、誰もが見惚れるような慈愛の笑みを浮かべていた。細められた目は愛おしいものを見つめるかのようで、しいなはひどく場違いな視線を向けられている気がして恥ずかしくなった。しいなの髪を扱う手もこわれものに触れるかのように丁寧に花びらを取り除き、乱れた前髪も優しく撫でつけられて直された。 「ん、いいんじゃねぇの?」 離れがたい、と手が言っているかのように、前髪から頬に手のひらが伝う。 例の視線と自分の視線があって妙な雰囲気に包まれた時間が流れる。 なんとも気まずく、どうしていいのかわからない間だったが、その視線にどうも覚えがあった。 最近ゼロスはよくこの眼差しでしいなを見るが、しいながこのとき思い出したのはゼロス自身のものではなかった。 しいなが思い出したのは相思相愛となったロイドとコレットだ。 ロイドがコレットを見る時、コレットがロイドを見つめる時、こんな眼差しをしていた。しいなはそこにお互いがお互いを想う気持ちを感じて、敗北感のような安心感のような複雑な気持ちを感じた。 ああ、二人は想い合ってるんだなって複雑になった。 その眼差しと同じものをゼロスがしいなにむけるということはどういうことか。しいなのなかで自ずと一つの可能性が浮かんだ。 そして、目の前の彼を直視できなくなって思わず顔を伏せた。そんなはずはない、と思ってもその優しい眼差しがしいなの思った可能性を肯定するからどうしていいのかわからなくなった。 「ん?どうした?」 どうしていいのかわからかいから、まだ頬に触れている手を掴んで、言い訳した。 「あ、あたし、おじいちゃんに頼まれてる仕事が残ってたんだった。そろそろお暇するよ」 ゼロスの顔を見ずに屋敷内に控えていたセバスチャンにごちそうさま、と挨拶をしてワイルダー邸を後にした。 自分で気づいた可能性に自信が持てない。だけど、たしかにあの灰色がかった蒼い目がそれを確信に近いものに変えてしまった。 ゼロスがあたしに特別な感情をもっているかもしれないなんて、肯定する材料があるからって信じられない。 帰り道、ガオラキアの森の冷たい空気に触れてもしいなの頬は、あつかった。 ————— 大木の上は相変わらず乾燥した風が吹く。 体が冷えてもおかしくないのにしいなは先日の眼差しを思い出すだけで身体中があつくなった。 おろちに気持ちを明確に言われた時に毎日彼のことを考えてしまうなんてことはなかった。 なのに、ゼロスからその可能性を感じただけで意識してしまっている。 まだ、しいなの心の特別席にはロイドが居座っていて離れてくれないのに、ゼロスはまるでしいなの中に新しい椅子を作って陣取ってしまっているようだった。 (仮に、ゼロスがあたしを好きだったらなんだってのさ。あたしたちの関係が変わるわけじゃない。ゼロスから明確になにかを求められてるわけじゃないし) 明日ワイルダー邸に向かわないいけない。ゼロスに会わなくてはいけない。 (いつも通りいればいいのさ) 自分に言い聞かせているうちに、鈍色の雲はどこかに行ってしまい、太陽がオレンジ色に染まり始めていた。 ——————— 翌日、ワイルダー邸。呆れるほど豪華な意匠の扉を叩こうとすると、庭から話し声が聞こえてきた。ゼロスとセレスだ。 「コスモスのシーズンももう終わりか」 「今度の夏にはお兄様に薔薇園をご覧になっていただきますわ!」 「薔薇っておい…むずかしいんだぞ」 しいなは、驚かずにはいられなかった。 遠目で見てわかる。ゼロスがセレスを優しい慈愛の目で見ている。しいなが可能性を感じたあの眼差しと同じに見えた。 なんだ。セレスにも同じ顔をするんじゃないか。 なんて、恥ずかしい勘違いをしていたのだろう。あれは単なる親愛の視線だったのだ。 結局ゼロスにとってしいなはセレスと同じように手のかかる妹くらいの認識だったということだろう。 これで憂うことは無くなったはずだ、ゼロスから恋情を向けられているわけではないのだ。なにも気にせず今まで通りでいられるじゃないか。 さっさと報告書を渡して、陛下に謁見して。 と頭の中でスケジュールを組んでいると、心の中にしこりが残ってるのに気づく。 しこりが重くなって胸が苦しい。 たまらず、兄妹から目を逸らして物陰に移動する。 どこか落ち着けるところに行きたい。 自分にとって大切なことを見落としている気がする。じっくり自分の気持ちと向き合える静かな場所に行きたい。 精霊研究所に長らく通っていたしいなはメルトキオを知り尽くしている。 昔よくコリンと研究所を抜け出して遊んだ 人気のない裏路地へと足を向けた。 ———————— 建物に寄りかかって崩れるように腰をつく。 空を見上げる。憎たらしいほどに快晴だ。 しいなの心を振り回すゼロスはなんなんだろう。 あらめて、冷静にゼロスという人物について考えたことがなかったと思う。この苦しい胸のしこりはそこで引っかかっているように思う。 ゼロス•ワイルダー。 女好き、シスコン、歩く猥褻物。 軟派な態度でよく人を食い物にする。 けどその裏には悲しく重い過去が隠されていて、世界再生の旅では彼を表面上でしか見れていなかった自分を反省した。 仄暗いしがらみを乗り越えたところがすごいと思う。 今を一生懸命生きるようになった変化を好ましく思う。 昔から分かりにくい優しさに何度助けられたことか。 暖かさを感じる紅い髪を眺めるのが好きだ。 それから、あの眼差しを向けられるのは恥ずかしいけど決して嫌ではなかった。 あの眼差しを向けるのは自分だけだという優越感がどこかにあった。 そしてそこから何かが始まるのを期待している自分がいたことに気づく。 今やしいなの中の一番近くの席にはゼロスが胡座をかいて座っている。ロイドは初恋という名前の席にちょこんと遠く座っている。 それがどういうことか分からないしいなではなかった。 いつのまにか惹かれてた。ロイドよりもゼロスに心を支配されている。彼の中で一番の席が欲しくなっている。 「どうしよう…」 恋情を向けているのは自分の方だった。認めたくないからゼロスのせいにしていた。 冷たい風が吹いて、ため息をつく。 突然、熟練された気配を感じて思わず立ち上がる。 臨戦態勢に入る。ここはメルトキオでも治安のいいところとは言えない。どんな不届きものでも勝てるように札を構える。 右か、左か、はたまた後ろか? 神経を研ぎ澄ませて緊張していると、間の抜けた声が後ろから聞こえた。 「よう!」 「ゼロス!?」 確かに熟練者の気配を出してもおかしくない人物だったが、今最も会いたくない相手だった。 「何やってるんだこんなとこで」 「べ、別になんだっていいだろ、あんたには関係ないし」 「あるね。さっき、俺様の家の前まで来てただろ?」 ゼロスにとって死角にいたはずなのに、気づかれているのは迂闊だった。 「それなのに急に踵を返してどっか行くからよ、こっちとしては気になったわけ」 「報告書!」 「は?」 「報告書を忘れたのに気づいたんだ!それで、取りに帰ろうと」 しいなはもう取り繕うしかなかった。ここにきた理由を正直に答えたところで理解してもらえるとは思えなかったし、死んでも言えなかった。 「しいな、これなんだ?」 「あ」 ゼロスは頭上でひらひらと紙の束を振って見せる。 「なんで」 とっさに懐に手を伸ばす。ここに入れておいたはずなのに。 それがミスだった。 懐に伸ばした手を掴まれて、報告書を引き摺り出される。 「あんじゃねーか」 「あ、あはは。ほんとだ、あたしの勘違いみたいだ…」 「勘違いね。じゃあ何で確かめた?」 「それは…」 「言えよ。別に怒んねーからさ」 「…」 どう説明するか。 あなたに好意を持たれていると勘違いしていることに気づいて残念な気持ちを落ち着かせるためにここにきました、そしてあなたが好きなことに気づきました、なんて、とてもじゃないけど言えない。 困った。ゼロスを見る。自分はこの男に惹かれているらしい。この男の一番の存在になりたいらしい。認めたくないが、あつくなる頬が、早くなる鼓動がそれが真実だと告げている。 「…そんな顔するなよ」 ゼロスは視線を弄んでいる紅い髪に向けながら罰が悪そうに言う。 「いくら我慢強い俺でもそろそろ勘違いしてキスしそうになる」 「は?」 この男、今なんと言った?言葉の意味を脳が認識しようとするが追いつかない。 「最近会う度、目ぇ潤ませて、頬染めて、それから上目遣いときたもんだ。俺様ほど理性がなきゃ今頃自分のこと好きだと勘違いして、キスしてるぞ?」 やっと言葉を認識した頭で意味を噛み砕く。 そんな顔してたのだろうか。確かにゼロスにあの眼差しを向けられると顔はあつくなったけども。 完全に油断していた。いや、そうなるのを望んでいたのか。 気がついたら、壁に体を押し付けられていた。 息がかかりそうなほど顔を近づけられ、蒼色の熱のこもった目がしいなを逃さないように絡めとる。 こんな目、セレスにはしていなかった。 「抵抗しろよ、本気にしちまうぞ」 明らかなこの態度が、この熱のこもった瞳がゼロスの心を訴えている。 どうやら勘違いではなかったようだ。 だとしたら、素直に喜ぶべきところだろう。 だけど、しいなの口はプライドはそんなことをいいたくなかった。 「…キス、してみなよ、抵抗するか確かめてみたらどうだい」 それは今のしいなにとってそれは精一杯の肯定だった。 ゼロスは目を丸くして、それから細めて笑った。 「そういうことなら、遠慮なく」 端正な顔立ちが近づいてくる。恥ずかしくてらたまらず目を閉じた。 真っ暗になった世界で一瞬何かが光ったのかと思った。 唇に柔らかいものが触れただけなのに、そこが熱を持ったようにあつい。 瞳を開けると切なそうに眉を顰めるゼロスがいた。 「ずっとこうしたかった」 一度で終わるかと思ったそれは、何度も何度も角度を変えてしいなの唇を奪った。 さっきまでキスを知らなかったしいなにとっては一回が精一杯だったのに、こう何度もされると腰が砕けそうになる。 必死で耐えていると、唇を割って熱いものが侵入してきた。 「ん!」 流石に耐えられず、ゼロスの胸を押す。いつも簡単にどついているはずなのに、びくともしい。 「ん、んぅんー!」 口の中に熱いものが這い回って侵してくる。 やっとの思いで肩を押して唇と唇を離すことができた。それでもまだ体はまだゼロスの腕の中にあった。離してくれる気がないらしいことに少しどきどきする。 「いきなり、なにすんだよ、このアホゼロス!」 いつものように強がってみたが、ゼロスは熱のこもった目のままで。 「お前のせいだろ。お前がしろって言ったんだぜ」 「ちょ、調子になるんじゃないよ…」 恥ずかしくて目を合わせていられず、視線を外す。 「なぁ、しいな。最初は抵抗しなかったし、そういうことだと思っていいってことだろ?」 そういうこと?つまりどういうことかというと。 その意味を理解した途端身体中が沸騰しそうになる。 「か、勝手にしなっ!」 「じゃ、これでしいなは正真正銘俺様のスイートハニーだな」 こんな汚い裏路地で、雰囲気も何もあったもんじゃない。 けど、望んでいた席はどうやら手に入ったようで、素直に喜ぶ言葉が言えなくても、今の状況に浮かれているのがわかった。 ゼロスが腕を緩めないのをいいことに胸に顔を埋めて隠した口元は、どうしても緩んでしまうから。