あおとり倉庫
恋着の果て

石畳の道の先にある教会から、朝の光を反射してきらめく鐘の音が響く。 その音を聞きながら、メルトキオで評価の高いバルのテラス席で紅い長髪の青年が朝食を摂っている。青年はシャドーストライプのジャケットを羽織っており、細身のスラックスに包まれた長い足を組んでいた。彼は自分の顔立ちが甘く端正で女性受けがいい事をよく自覚していた。その証拠に、年頃の令嬢達が遠巻きにこちらに憧憬の視線を向けている。彼女らと目が合った青年―ゼロスはごく自然にウィンクをしてその視線に応えてみせると黄色い歓声があがった。 「相変わらずね、神子様?」 気がつくとゼロスの目の前に顔見知りの伯爵夫人が立っていて、くすくすと、艶やかに笑っている。従者を連れて朝の散歩の途中に見える。 「いつものラフな格好じゃなくて、フォーマルなお洋服をお召しになっているから、今日はこれから教会で行事なのかしら?」 「ええ、これから会合がありまして。今日はシェフと執事が不在なのでこんな所で朝食を頂いているわけです」 「そう。ところでいいワインが手に入ったの。夫も暫く不在だし、今夜久しぶりに一緒にどうかしら」 明透な誘いにどうしたものかとゼロスは苦笑いをする。この夫人とは過去に一夜だけ「遊んだ」ことがある。数年前のゼロスであれば、暇つぶしに応じていたかもしれないが今は状況が変わった。彼の脳裏に黒髪の恋人の姿が思い浮かんで、どう断ろうか思案する。 ゼロスは残念そうな顔を作ってから答えた。 「会合の後、厄介なことに夜まで会食があるのです」 「そう、残念。また今度ね。それじゃ」 あっさりと引き下がった夫人は従者をつれて去っていった。彼女はメルトキオの一部では有名であった。若い男を捕まえては関係を持つことで知られている。彼女の言う「ワイン」は他のお気に入りの情夫の口に入るのだろう。他の候補がいると知っていたから、ゼロスは適当な理由であしらえると分かっていて、答えたのだった。 食べ終えた食器が下げられて広くなったテーブルで食後の紅茶を飲みながら、ゼロスが考えるのは最近恋人になったしいなの事だった。なんとなく一緒にいることが増えた彼女だったが、甘い言葉を囁いたところで、今までの行いのせいか、信じて貰えず簡単には落ちてくれなかった。しかし、共に仕事をして苦労を分かち合ううちに愛の言葉が拒まれることが減っていった。そして甘い雰囲気になった所で口付けすると受け入れられた。その頃から彼女はメルトキオに訪れた時は彼の部屋にやってきて寝起きするようになったから、もう恋人になったとゼロスは認識している。 長いことしいなに対しては諦念と思慕の間で揺れていたので、やっと望む関係になれたしいなにゼロスは強く恋着している。それ以上に長く思ってきた分煮凝りのような愛や恋だけでは語れない執着心も自覚している。 しかし、しいなはどうだろうか。 今のような場面を見るとしいなはどう思うのだろう。ゼロスはしいなが異性に言い寄られていたら、激しく嫉妬に心を占められるのは自分自身で予想がついている。彼女とキスしたり愛情をぶつける度、独占欲が強くなっていくのを自覚していたからだ。 対してしいなは、関係が変わってもあっさりしている。ゼロスがいつも名残惜しくなる短い別れの瞬間にも、彼女はいつもそそくさとなんの感慨もなさそうに去ってしまう。 だから、きっと今のような場面を見ても可愛らしく嫉妬して自分に縋ってくるところが想像できないのだ。 ゼロスはため息をつくと、テーブルに代金を置き、席を立つ。そろそろ、仕事の時間だ。面倒くさい新しい教皇との駆け引きが待っている。 ゼロスは重い足取りで教会に向かった。 すっかり日が暮れたころに仕事は終わった。会食があると伯爵夫人に言ったのはもちろん嘘で、この後特に予定は無い。頭を使う駆け引きに疲れてしまって寄り道をする気力もないので、まっすぐ屋敷に帰ることにする。大通りを歩き始めてふと路地裏に目が止まる。見慣れた忍装束がそこに入っていくのが目に入ったからだ。ゼロスは無意識に気配を消してそちらに足を向ける。明らかにあの装束はしいなだったが、仕事だろうか。建物の陰に隠れて様子を伺うと、やはりしいながいた。誰かと喋っているようだ。 「じゃあ、教皇に賄賂を渡していた目撃者はいたってことだね」 「そうだ。裏をとるなら本人に会うといい。サンター・カスの裏に住んでる」 「ありがとう…今回の情報料だよ。受け取っておくれ」 「確かに受け取った」 「じゃあ、あたしはこれで」 「なあ、待てよ」 「なんだい」 「お前に情報を売るようになって半年くらい経つが、お前自身に興味がでてきた」 物陰に潜むゼロスは思わず息をのむ。あろうことか恐らく情報屋だろうその男は自分の恋人を口説き始めようとしているようにしか見えなかった。妨害しようとした所で、情報屋が聞き捨てならないことを言ったので、出ていくタイミングを失う。 「お前、神子の女の一人なんだろ?」 ゼロスとしてはしいなひとりと恋人関係でいるつもりだが、世間はそうは見ていないらしい。まるで情婦のような男の言いように、しいながどう反応するかが気になって、様子を伺っていると何やら言い淀んでいるようだった。 「どんな手を使って取り入ったんだ?俺にも情けを分けてくれよ」 男は下卑た笑みを浮かべてしいなに手を伸ばす。さすがに間に割って入ろうとした時、しいなは男の手を強く振り払った。 「気安く触るんじゃないよ!あんたからもう情報は買わない」 「…冗談だよ。お前が割と可愛いな顔してるからからかいたくなって」 「どんな理由だろうと、あたしはもうあんたを信用出来ない」 「俺様の女になにか用か?」 ゼロスはもう耐えられなくなって、路地に入った。驚いたしいなの顔が目に入る。 「ゼロス!?」 「神子様!?」 「おい、そこの情報屋風情。この商売続けたかったら、神子である俺様に目をつけられるとまずいんじゃないのか?」 男は焦ったように取り繕い始める。 「じょ、冗談ですよ、神子様。貴女のものに手を出してこの街で生きていけると思ってません!じゃ、俺はこれで」 男は踵を返し、路地の奥へと走って消えていった。 「しいな」 自分でも驚くほどの低く冷たい声が出る。しいなはびくりと肩を震わせた。 「行くぞ」 しいなの手を引くと屋敷に足早に向かった。道中どちらも喋らなかった。 屋敷につくと、私室にしいなを攫うように連れ込む。壁に押し付けて情動のまま口付けた。 「んぅ!」 深く角度を変えながら口内を蹂躙すると、しいなは胸の当たりを叩いてくる。息継ぎの機会をそれとなく与えてやってるのに多分余裕がなくて出来ていないのだろう。仕方なく解放してやると肩で息をする目の潤んだしいながこちらを睨んでいる。その目が何となく気に入らなくて、キスを再開する。唇ではなくて、耳を食むように口付けてやると、耳の弱いしいなは身体の力が入らなくなったのか、こちらに体重を預けてくる。 「なんであんな男から情報を買ってた」 「あ、あんたには関係ないだろ。仕事だよ!」 もう身体は陥落しているのに、口は抵抗する気力があるらしい。しいなが抵抗の素振りを見せる度、醜い独占欲と嫉妬心が膨らんできて支配欲に変わる。首筋をぺろりと舐めて、強く吸って跡を付けるとしいなは悲鳴に近い声を上げる。 「なんで、俺の女の一人って言われて否定しなかった?結構傷ついたぞ」 「だ、だって…事実だろ?」 「は?」 先程までとらわれていた支配欲とかそういうものが吹き飛ぶ。驚きや不満や悲しみや自分でも自覚しきれない諸々の感情にのまれて呆気に取られる。 しいなは続ける。 「あたしだって馬鹿じゃないよ。あんたに他の女がいることくらい知ってる」 「待て待て待て!どこでそんな話になった!お前だけだって言ってるだろ」 「そんなの!その場の雰囲気の言葉としか受け取れないよ!今朝だって」 壁に縫い付けているしいなの瞳にじわじわと涙が溜まっていて、ついに一筋流れる。 「今朝だって!伯爵夫人に誘われても完璧に断ってなかったじゃないか!次も誘われやすいような断り文句で」 ゼロスは言葉が出てこない。あの場をしいなに見られていたことに驚いたが、それ以上にそんな風に見られていたことがショックだった。あの時、明確に夫人に拒否の言葉を向けなかったのは簡単な理由で引き下がってくれると見越してたのもあるが、今後の社交界で無駄な波風を立てないようにしていたのもある。 だが、それ以上に。 「お前は、そんな風に俺の事を見てたのか…」 「信じられるわけないじゃないか!こんな関係になったのだってなし崩しだったし、何年もあたしの事、女として興味無さそうだったし、色んな女と浮名流してたことも知ってたし。…なにより、今朝のあんたの伯爵夫人との関わり方で確信したよ!ほかに女がいるって。声をかけられたら、機会があれば誰でもいいんだって」 しいなの涙ながらの告白に言葉を返せないでいると、しいなは鼻をすすりながら言葉を続ける。 「でも、あたしいつの間にかあんたのこと好きになってたから…こんな関係でもいいって思って。あんたはあたしに本気じゃないだろうけど、あたしはあんたのこと好きだった」 しいなはどこか自嘲気味に続ける。ゼロスはこの後の展開に嫌な予感しかしなかった。 「あたし重い女なんだ。もう嫌だろ?こんなあたしのことなんて。あたしももう見えないほかの女に嫉妬したり自己嫌悪するのに疲れたよ。だから、もうこんな関係終わりにしよ…」 「そんなの許すわけねぇだろ!?」 しいなはびくりと身体を震わせて目を見開く。ゼロスは壁に押し付けるしいなの手首にさらに力を入れる。痛いかもしれないが、分からせないといけない。 「お前にとって始まりはなし崩しだったのか?俺は必死にアプローチしたのがやっと受け入れられたんだと思ってた。確かに前はお前に興味のない振りをしてたけど、それは神託があって諦めてたからだ!」 「…そんなの言われてないから知らないよ!」 ゼロスは心の中で舌打ちする。興味のないふりをしていた事で混乱させてしまったことはもうどうにもできない。過去のことだからだ。だが、ゼロスはしいなとの関係が始まってからの自分の行いを後悔していた。ゼロスにとってはしいなは初めての本気の相手だ。だから、慎重になっていたのもあるし、しいながあっさりしているから複雑に煮詰められて執着に近くなった恋心を知られたくなくて、しいなに温度感を合わせていたのもある。 だが、今自分の気持ちが歪んでしいなに伝わっていると知ってこのままではだめだと身に染みた。 ゼロスはしいなを壁から解放するとその腕を掴んだまま引き寄せて腕の中に優しく閉じ込めた。 「悪かったよ、俺の言葉足らずだったり、自分の気持ちに正直になりきれてなかったから、お前は信じられなかったんだな」 「…まさか本当に本気、なのかい?」 「そうだよ。昔からずっと好きだった。これからは信じて貰えるように誠心誠意お前と向き合うよ。だから終わりにするとか言わないでくれ」 「……ゼロス…」 「愛してる、しいな。本当にお前しかいらないんだ」 情欲に任せた先程の口付けを忘れさせるように、ゆっくりと確かめるように唇を奪う。しいなは拒否をすることなく受け入れてくれた。どうやらまだ首の皮一枚で繋がっているようだ。油断はできないが。 ゼロスはジャケットを脱いで、ジレとワイシャツ姿になると、しいなを抱き上げてベッドに向かうと、端に座らせた。 「お前が初めてなんだ。惚れた女とこんな関係になったのは。だからどうやって証明していけばいいのかわからない。ここでお前を抱くことが正解なのかわからない。けど、お前が俺の前からいなくなりたいのなら、身体に俺を刻み付けてでも俺はお前を離さない」 ゼロスはしいなの前で跪く。そして手を取って甲に口付けた。 「しいな、好きだ。絶対に逃がさない」 誠心誠意向き合いたい言葉に嘘は無い。だけど、もうしいなを手放すことは耐えられない。だから、どんな手段を使ってでも繋ぎ止めて置かなければ気が済まない。ゼロスはどこか狂気じみたしいなへの自分の感情に驚きながらも、妙に納得してしまった。 しいなは自分のことを重い女だと言った。だが、ゼロスの方がよっぽど重く、そしてどこか後ろ昏いほどの感情を抱いている。 *** しいなは、自分の前に跪いてどこか縋るように手の甲に口づけるゼロスを見て、やっとゼロスの本気を信じられるような気がした。そして、選り取りみどりの女性たちに囲まれて自信満々に見えていた昔のゼロスの印象が薄れていく。 気がつくと、ゼロスは天蓋の向こう側にしいなを押し倒していた。そして肢体を優しくそしてどこか粘着的に暴いていくのをしいなは受け入れていた。 言葉以外の愛情表現を閨の中でしかできないゼロスの乏しさがしいなは愛おしくなり、自分からも求めた。すると、ゼロスは激しさを増し、ゼロスの愛情が自分が思う以上に複雑でまどろっこしいことに少し気づいた。それでも受け止めたいと思った。 しいなはゼロスの恋着の果てにある自分に対する感情に、これから少しずつ触れていくことになのだった。