アルタミラホテル最上階のスイートルーム。 その部屋にあるキングサイズベッドの上には、黒を貴重としたシンプルなマーメイドラインのドレスと、細かな装飾が施されているサテン生地の下着が並べらへていた。しいなはそれらを一通り見渡すと本日何度目かのため息をついた。 これらはゼロスが今夜のために作らせたものだ。 そう、今夜。 初めてゼロスに抱かれる。 それはくのいちであるにも関わらず、未だ男を知らないしいなには想像もできないことだった。 里のくのいちたちは諜報活動のために房中術の心得があるものがものがほとんどだ。しかし、しいなは幼いころから召喚士としての素質を見いだされ、忍としての実戦訓練以外は精霊研究所で過ごしたため、その心得がない。 人並みに男女の情交に関しての一般知識はあるつもりだが、それすらも怪しい。 そんなしいなは、今日、目の前には広げられている衣装を身に纏い、夜を迎えたとき、ゼロスの手で未知の世界へとつれていかれてしまう。 嫌なわけではない。むしろ心の何割かではそうなることを望んでいる。しかし、やはり未知なものを恐れる気持ちもある。そんな反する二つの気持ちがない交ぜになって着替えの手が先ほどから止まっていた。 「藤林さま、お召し替えが終わりましたらお声がけ下さいませ」 隣の部屋には、ゼロスがメルトキオから寄越したメイクアップ係たちがしいなの着替えが終わるのを待っている。身支度を手伝う為だけにやって来た彼女たちを待たせるわけにもいかず、しいなは観念して、着ている服に手をかけた。 メイクとヘアセットが終わり、姿見の前に立たされると、しいなの目の前にいたのは見慣れない自分自身だった。 普段の薄化粧と違う細かな化粧も、いつもより上品に纏められた髪型も、そして衣装も、それら全てが一流なことがしいなにもわかる。我ながらそれなりにいつもより綺麗に見える。そんな自分自身に心が踊っているのも確かだが、田舎娘が背伸びしたようなその佇まいに、しいなはひどい違和感と気恥ずかしさも感じていた。 「しいな、入るぞ」 声のした方を振り向くと、ゼロスがメイクアップ係と入れ違いに部屋に入ってきた。 その装いはしいなと同じく黒を貴重としたドレスコードでまとめられている。普段のラフスタイルですら都会的なのに、こうしてより洗練された印象のゼロスを見ると、背伸びした自分と不釣り合いに思える。そんなことに思いを巡らせていると、ゼロスがこちらを頭のてっぺんから足の爪先まで凝視していることに気づいた。たまらず恥ずかしくなって後ろを向くと、鏡越しにゼロスと目が合う。 「綺麗だ」 「どーせ、馬子にも衣装とか思ってるんだろ?」 「素直にありがとうって言えねーのかね…」 言い終わると同時にゼロスは右手を使ってしいなの腰を引寄せ、左手で鎖骨の前から肩を抱くように回した。 「綺麗だし、色っぽいな…」 耳元で聞こえる吐息混じりの賛辞に、思わずしいなは身を震わす。その反応に気をよくしたゼロスはしいなの耳朶を甘噛し、そして舌先で弄ぶ。 「…んっ」 「やっぱり耳弱い」 しいなは鏡に映るゼロスの表情が艶っぽいことに胸が高鳴る一方、自分自身の見たことがない表情に戸惑いつつ身をよじって抵抗した。 ゼロスがしいなの腰にまわしていた手を解いて太ももに這わせていると、それに気づいたしいなはゼロスの手を親指から丁寧に剥がす。いつもこういった恋人同士の触れ合いの時はゼロスが主導権を持っていた。今日も彼のペースになるのは悔しかったので、さらに言葉でも抵抗の意を明確にする。 「ゼロス!今から食事行くんだろ?」 「んー?そうだな」 ゼロスは簡単にしいなの体を自由にする。しいなは、自分の発言を素直に受け入れてくれたものだと思ったが、安心したのも束の間だった。 「その前に前菜ちょうだい」 ゼロスはしいなの体をすばやく自分の方へ向かい合わせると、触れあうだけのキスをした。そのあっさりとした口付けに油断していると、再び唇が迫ってきて濃厚な口付けに変わった。舌が口内に無理矢理侵入してきて、しいなの弱い箇所ばかりを執拗に狙ってくる。そして、とどめといわんばかりに上下の唇を舌先を使って丁寧に舐めると、しいなの体は芯から熱をもち、肌が粟立った。さらには立てなくなり、倒れそうになったところをゼロスに全体重を預けてしまう。ここまでは、何度か経験したことがある。今日はこの先に進むのだと、ゼロスの熱の孕んだ目を見ながらぼんやりと思っていると、その彼の声で我に帰る。 「そんな目で見るなよ」 ゼロスが珍しくかすれた声で、切なげに眉をひそめる。 「前菜で終わらなくなるだろ?」 今夜の約束があるだけに、鈍感なしいなもその言葉の意味がわかり、身構える。 「あ、あんたのせいだろ?」 「はは、ちがいねーな」 その時、ゼロスはなにかに気づいたように、表情を変えた。 「悪ぃ。崩しちまった」 ゼロスは支えていたしいなの体を抱き起こすと、再びしいなを鏡に向き合わせ、唇を指す。しいなの唇は先ほどよりルージュの色が薄くなっていた。 ふと、しいなが横を見るとゼロスがハンカチで自らの唇を拭っている。ハンカチについた口紅を見ると、先ほどまで濃厚に口づけていた証拠を突きつけられている様な気がして、居たたまれなくなり目をそらす。緊張や気恥ずかしさや、先ほどのやり取りで自らに灯った熱さなどを感じていないふりをして自分のルージュを塗り直した。 沈む夕日を見ながらカジノに併設されたレストランで夕食をとり、少しだけカジノで遊んだ。そして、バーで軽く飲んだあと、ホテルへの帰路に着いた。 エレベータに乗り込むと、二人以外宿泊客は誰も乗っていなかった。せっかく食事や遊びで、気を紛らわすことができたのに、二人っきりのこの状況では再び意識せざるを得なかった。 「しいな、緊張してんのか?」 「し、しないわけないだろ?」 「緊張しまくっているところに残念だけど、部屋に帰る前によりたいところがある」 気がつくとエレベータは最上階を通過して屋上に停まっていた。 そこはレザレノカンパニー本社のものを模して作られた屋上庭園だった。 「綺麗だろ。この時間は俺達が泊まってるスイートの客へ貸し切りなんだってよ」 「へー!すごい!綺麗じゃないか!」 敷地の隅から隅まで草木で飾られ、中心にある噴水は月光を反射させてきらきらと輝いている。突然目の前に広がったおとぎ話のような世界に、先ほどの緊張も忘れてしいなは少女のようにはしゃぎまわった。やがて、本家の屋上庭園には無い木の枝から伸びているブランコを見つけると、こぎはじめた。 「すごい!ここから遊園地が見えるよ!」 部屋から見ても十分きれいな夜景だが、このおとぎ話の世界から眺めると、アトラクションの輝きながら変わっていく配色が、遠くでひらひらと舞う妖精のように見えた。 その情景を堪能し終わったしいなは、ブランコをこぐのをやめ、座ったまま満面の笑みをゼロスに向ける。 「連れてきてくれてありがと。すごく気に入ったよ」 「リーガルに、ここを改装して夜をスイートルーム客の貸し切りにするって聞いた時、お前を連れてきたいと思ってたんだ。ホテルに帰って来ていきなり抱くのもムード造りにかけるなーって」 なんともデリカシーに欠ける発言だが、それよりも「抱く」という単語にしいなはぴくりと反応する。急に現実に引き戻されたしいなは、うつむき、ブランコをゆっくりと小さくこぐ。 「…なあ、ゼロス。ほんと言うとさ、あたし、初めてだし、…どんな感じなのか想像も出来なくて…」 「ああ」 「…その、…怖いんだ」 気がつくとゼロスはしいなの前で中腰になっていた。うつむいていた顔を上げると至近距離で目が合う。アイスブルーの眼差しが優しく笑っている。 「でも、お前は怖くても今日来てくれた。怖くても関係を進めてもいいって思ってくれたんだろ」 「ま、まあ…そうだね」 「心配するな」 こつん、としいなの額をゼロスの人差し指がつつく。 「優しくするようになるべく頑張る」 「な、なるべくって…」 しいなの額をつついた指先が下に降りて、唇を撫でる。 「まあ、不安なんか忘れさせるくらい夢中にさせるさ」 「…この、アホ神子」 暫くすると二人はどちらからともなく笑顔になった。そして額同士を軽く合わせ、また笑った。 額を離すと、ゼロスはしいなの手を引いた。 「しいな、ちょっとこっち来い」 「え?ああ」 促されるままにブランコから降りると、庭園の中心、噴水前に誘導された。 そしてゼロスは壊れ物を扱うようにしいなの左手をとる。その反対の方の手でジャケットの内ポケットからなにかを取り出すとそのまま薬指にはめた。 「俺の気持ちだ」 「え?」 「お前を抱く前に、俺の覚悟だけは知っておいてほしいんだ」 急に始まった展開についていけないしいなの左手には薬指に指輪がはめられていた。 (こ、これって…まさか婚約指輪かい!?) 「この前お前のじーさんが久々にメルトキオ来たのは知ってるな」 「…え?…あ、ああ。おじいちゃんが頭領だった頃の案件について、調べる必要が出て来て呼ばれてた」 ゼロスは指輪と関係なさそうな話をはじめ、しいなは混乱したが、なんとか返答した。 「その時、俺の家にも訪ねてきたんだ」 「え!?」 「それで、俺としいなの関係について色々言われた。どれだけ俺とお前が愛し合っていても、相容れない立場が越えられない障害になっていると」 「……」 「確かにその通りだ。俺は神子制度終了後も公爵家として国政に関わる身、お前は国政を裏から支えるミズホの頭領だ。しいなが公爵家に嫁ぐこともできないし、俺が里の頭領のパートナーとして藤林家の一員になることも出来ない」 「それで、おじいちゃんはなんて言ったんだい?」 「…一緒になる将来はありえないから別れろってよ」 「おじいちゃん、そんなこと言ったのかい…」 しいなは正直狼狽えていた。祖父に交際していることはまだはっきりとは伝えていなかったため、知っていることも驚きであったし、なにより明確に二人の交際に賛成していないことにも、やはりという気はしていたが、悲しさを感じていた。陰り始めたしいなの雰囲気を察して、ゼロスはとりわけ明るい口調で話始めた。 「もちろん俺様はお前と別れる気はないぜ。 それでさ、色々考えたわけよ。例えば、こう考えるのはどうだ?俺達は結婚したら、家が二つあるつもりで、お互いの家業を続けて、時間があるときにお互いの家に行き来する。子どもが出来たらそれぞれの家で一人ずつ跡継ぎとして育てる。それでもダメなら、いくらでも他の方法を考えてやる」 「ゼロス…」 「近い内に、正式にミズホを訪ねて、別れるつもりが無いことや、どうやって折り合いをつけていくつもりなのか俺の考えを伝えるつもりだ。だけど、その前にしいな、肝心なお前の気持ちを聞いてなかった」 ゼロスは跪き、そして再びしいなの左手をとった。 「藤林しいなさん、私と結婚してください。…愛しています」 今の一連のやり取りでしいなの胸は既にいろいろな想いで溢れている。それをすべて言葉にして伝えようと思うが、上手く言葉にならない。だからせめて今の言葉への肯定の意志だけ伝えようと口を開いたが、のどがつまったように苦しくてしゃべるのが難しい。 「は…は、い…」 それだけやっと吐き出すと、涙が一粒こぼれた。やがて二粒、三粒流れたあと、しいなは声をあげて泣いた。堰を切ったかのように止めどなく涙が溢れてくる。 ゼロスの胸にそっと抱き寄せられても、しいなは暫く泣き続けた。 本当はずっと不安だった。 しいなはゼロスと恋愛関係になったとき、様々な覚悟をした。 分かりきっていたから。自分達は障害が多い難しい恋人同士だと。 だから、想いが強くなる度、しいななりに二人の将来の形を考えた。 それなのに、しいなの頭の中では最善の形が思い浮かばなくて、不安で枕が濡れた夜は多い。 ゼロスに不安を打ち明けようとも思った。だが、愛されている自信はあったが、生涯を共に過ごす伴侶として自分は考えられているのか自信がなくて、なかなか切り出せなかった。 それが、ゼロスの方から切り出してくれた。問題はまだ山積みで何も解決してないが、ひとまずしいなの不安は一人のものではなくなった。それだけで、心が軽くなる。そして、それよりもゼロスが自分と生涯を共に歩むつもりでいてくれたことがうれしい。 ひとしきり泣いたあと、ポツリとしいなが呟いた。 「ゼロス」 「んー?」 しいなはゼロスの胸を押して腕の中から出た。そして改めて彼と向き合った。 「色々考えててありがとう。…何があってもずっと一緒にいとくれよ」 「最初からそのつもりだっつーの。…ところで」 先ほどまでの真面目な雰囲気が一変、ゼロスはニヤリと軽薄な笑みを浮かべた。 「涙で化粧が落ちてすっげー不細工だぜ」 「…!…う、うるさい!殴るよ!」 いつもの調子でしいなが手を上げたとき、ゼロスが言った。 「…それでも綺麗だ」 ゼロスの纏う雰囲気がまた変わる。先ほどの真面目なものとも、もちろんふざけたものとも違う。しいなは自分だけを見つめる熱い眼差しから目をそらせなくなって、思わず振り上げた手から力が抜ける。 ゼロスは行き場のなくなったしいなの手をつかんで再び引き寄せると唇を奪った。 「部屋、もどんぞ。唇冷えてる」 「…ん」 部屋の閉まる音がすると同時に、天蓋の向こうに押し倒される。 月明かりにうっすらと浮かび上がるゼロスの顔は、夕食前にしたキスの後と同じ、切なげなものだった。 どうしてそんな顔をしているのか、しいなはその切なさが移ったように胸が苦しくなって、彼の頬に手を添えた。するとその手の上に彼自身の手を重ねられ、そのまま手のひら同士を合わせて指を絡ませられる。そしてしいなの顔の横にその手を置くと、それが合図だったかのように、激しいキスの雨が降ってくる。唇に、瞼に、首筋に、鎖骨に。 早急に進められる行為とは裏腹な優しい愛撫に、初めはふわふわと現実味が沸いてこなかった。 しかし、すべて互いの衣服が取り払われたとき、触れあった肌の熱さが今起こっていることを現実だと実感させた。 はじめて見た体も、見せた体も、恥ずかしいとは不思議と思わなかった。心が通じ合い、満たされた今では、ただただ愛しくて求められるまま身を委ねた。 そして、やがて訪れた初めての痛みを乗り越え、愛を確かめ合いながら夜がふけていった。 しいなが目を覚ましたのは、カーテンの隙間から白み始めた空が見えた頃だった。覚醒しきっていない頭で、寝返りをうつ。するとゼロスの寝顔が目の前に現れ、昨日の出来事を思い出して一人でもんどりをうった。 昨日の夕方、このベッドの上に並べられたドレスや下着とにらめっこしていたときは不安で仕方なかったが、体の違和感を除くと、むしろ愛で満たされて幸せな気持ちになっていた。 そもそも、昨夜ベッドに入った時点では不安などほとんどなかった。きっとそれは、その前にもっと大きな不安が小さくなったからだろう。その不安を解いてくれた約束の証である薬指のリングを撫でると、まだ眠っているゼロスの頬に口づけた。 「ありがとう、ゼロス」 そして、しいなはまだ満足に落ちていない化粧や汗を落としに、バスルームに向かった。 *** しいながシャワーを浴びる水音を聞きながらゼロスは目を開いた。長年の想い人と生涯を共に歩む覚悟を共有できたことや、時間をかけて進めてきた関係を最後まで結べたことに舞い上がって一睡も出来なかった。そのため、少しの疲労を感じていたが、心は幸せで溢れている。 ふと、先ほどしいなに口付けされた頬を撫で、一言呟いた。 「ありがとう、なんて俺の台詞だ」 何があっても共に生きるー一蓮托生でいると言ってくれて。