あおとり倉庫
短編集3
三か月目

しいながゼロスと世間で言うところの恋人関係になってから三ヶ月が経つ。恋人になった所で二人の関係は相も変わらず、言葉の応酬だったり、意地の張り合いだったり、周りから見れば変わらない。 しかし、二人きりになったとき、それは変わる。今二人はゼロスの自室に入って少しだったところだった。 「しいなは、かわいいな」 ゼロスはソファの上に座っているが、その膝の上にしいなを乗せて、腰に手を回している。しいなは借りてきた猫のようにガチガチになっている。 「…本当に…思ってるのかい?」 「…なんだよ、まだ信じねーのかよ。あれだけ俺様が本気でお前に惚れてたことや、ロイドくんにかなわないと思って諦めようとしたこととか話したのに!?いい加減傷つくぜ」 「だって…ずっとそんな扱いされなかったから」 「それも、本気だったから迂闊に手が出せなかったからって言ったでしょ」 「…う」 「しいなだってそれを三ヵ月前信じてくれたから、俺様の告白を受けてくれたわけでしょ?」 「…そうだけど」 平行線の会話は続く。ゼロスの言った通り、しいなはゼロスからの告白を受けた時、いや彼がしいなに素直になったときからその空気は感じていて、嫌じゃないと思ったからゼロスの告白を受け入れた。関係が変わった途端二人きりの時に「恋人」にシフトチェンジできるゼロスと違ってしいなはそんな器用なことは出来なかった。 そもそも、誰とも付き合ったことがないのだ。どう振る舞えばいいかなんてわからない。 「…しいな」 不意にゼロスが低い声で呼ぶ。 「な、なにさ」 「試しにさ、俺の首に腕を回してみてよ」 「え?こ、こう?」 しいなは抱えられているから少し下にあるゼロスの首に両手を回してみた。すると片手でしいなの腰に手を回していたゼロスが両手でしいなの背中ごと抱きしめてきた。 しいなの豊満な旨はゼロスの胸板に押しつぶされて、顔はゼロスの肩口に埋められるかたちになって密着度増す。それに比例してしいなの鼓動も早くなっていく。 「…どう?」 その状況で口を開いたのはゼロスだった。 「ど、どう?っていわれても…」 「俺はさ、すごく幸せな気持ち…好きなお前とこうして触れ合えてさ」 「あ、あたしは……」 嫌ではない。反射的に押しのけようと思わなかった。すごくドキドキする。ドキドキが邪魔して自分の心が読めない。 「あの、嫌じゃないよ…その…すごくドキドキしてる…」 「嬉しいとかは?」 「…わかんない」 「…そっか。まあ俺様がしいなの初めての男だし、俺からの告白だったからそれで今はいいけど、」 ゼロスが言葉を切った途端視界が回転する。目に入ったのは天井と、挑戦的な眼差しをしたゼロスの顔。 「お前から求めてやるようにするよ」 「っ!」 「ずっとお前が欲しかったんだ、身も心も俺を求めるようにしてやる」 しいなは少し怖さを感じて身を捩って逃げようとしたが、完全にゼロスにのしかかられていて、肩口を彼に押さえつけられてて難しい。 「俺にもっと恋してよしいな」 「何言って、あたしはあんたの…」 「告白を受け入れただけだろ?俺としては同じ熱量が欲しい」 しいなの内心は複雑だった。しいなとて何となくゼロスの告白を受け入れたわけじゃなかった。前と違って前向きに生きる姿がいいな、とか、時折見せる真面目な眼差しにときめいてみたり、異性として十分意識しているのだ。いつも鋭いはずのゼロスはいつもまるで自分が片思いしてるかのようにしいなにせまってくる。どうすれば、同じ思いを持っていると伝わるのだろうか。 しいなはゼロスに押し倒されながら、熱い瞳をみて思い出した。この瞳で口付けをされた時、身が燃えるように彼の気持ちが伝わってきた。 しいなは自然にゼロスの両頬を掌で挟むと首を少し浮かせて、唇に自分のそれを重ねた。少しして、離すと何故か泣きそうになって泪が一筋流れた。 「しいな…」 「…伝わったかい?」 ゼロスは驚いたような顔をして、そして、しいなの顔の横のクッションに頭を突っ伏し た。 「あたしだって、ちゃんとあんたのこと、好き、だよ」 クッションで隠れていてゼロスの顔は見えない。だけど耳は真っ赤に染まっている 「だめ、しいな」 「え?」 「今それ以上なにかされると襲っちゃう」 「おそ…え?」 「アホしいな、分かりずらいんだよ」 「あんたのペースでどんどん進めるからだろ!?慣れてるからって」 「慣れてないんだよ!」 ゼロスはがばっとクッションから顔を上げた。そして、ソファの上で胡座をかき、髪を掻きむしった。 「本気で惚れた女とこういう関係になるのは初めてだから余裕が無いんだよ!から回ってるんだよ!」 しいなも身を起こし肘置きを背もたれにして横座りした。 「早くて抱きたいけど、お前はそういうの興味無さそうだし、そもそも俺の事恋愛として好きなのかも分からなかったし!」 交際を始めてからゼロスがこんなに本音で話すのは初めてだ。だから、なんだかしいなは嬉しくなってにっこりと笑ってしまった。 「…なに笑ってるんだよ」 「あたし達一緒だなって思って」 「は?」 「お互い好きなのに、どうしていいか分かってないところ」 瞬間、不意に抱きしめられた。 「お前、マジで抱くぞ、そういうこと言ってると」 「…今はまだ怖いけど…あんたが慣らしていってくれるならいいよ」 「アホしいな、マジにするからな」 それは十九歳と二十二歳の初な交際の一幕なのであった。

何年たっても

空が朱に染まる頃、ミズホの頭領屋敷の一室で、薄紫の七宝柄の小袖に身を包んだしいなは一服しようと茶の準備をしていた。湯呑みは二人分あって、しいなは急須から同量に茶を汲みわけた。ちゃぶ台の向こう側で肘を着いた思案顔のゼロスの前に淹れた茶のひとつを置く。 「ああ、ありがと」 ぶっきらぼうにそう呟くと、ゼロスは茶を啜った。ゼロスの装いもミズホ風で深緑の着流しだった。 世界統合から十年の歳月が経っていて、神子を退位したゼロスは三年前にミズホに婿入りしていた。 「昼間、楽しかったね」 「あぁ」 やはりゼロスはどこか心ここに在らずだった。昼間にはコレットを伴ってロイドがこの屋敷に訪れていた。彼らは未だエクスフィア回収の旅の真っ只中で、近くに来たからと顔を見せてくれたのだ。滅多に会うことのなくなった、かけがえのないかつての仲間との時間はしいなにとって、とても心温まる楽しい時間だった。今でも名残で心が弾んでいるというのにゼロスの様子は相変わらずぱっとしない。 しいなは淹れた茶を一口飲んで、ちゃぶ台の向こう側のゼロスを見て首を傾げていると、湯呑みを置いたゼロスが不意に口を開いた。 「なぁ、しいな。俺のどこが良くて結婚したんだ?」 「…な、なんだい、唐突に」 しいなは、持った湯呑みから危うく熱い茶をこぼす所だった。いつもなにかとうるさい彼がロイドが去ってからずっと大人しく思案顔をしていたかと思えば、次は斜め上からの発言だった。だから驚かずにはいられなかった。 「いいから、答えてくれ」 昼間、ロイドたちがいる時はいつも通りおちゃらけていた。だが、今はそんな雰囲気などどこにもなく、滅多に見せないシリアスな顔でそう聞かれてしいなは答えに窮した。急な質問の意図が全く分からない。 「そんな…今更言葉に出来ないよ」 「へぇ」 障子を締切った部屋は夕陽がさして熱がこもっている。それなのにしいなは冷や汗が出そうだった。ゼロスの目は納得していなくて、なにか圧を感じる。結婚して三年目にして気づいたが、こういうとき、彼は大抵不機嫌だ。そして、そんな彼にしいなはいつも押し負けてしまう。多分彼の納得する答えがしいなから出てくるまでこの問答は続く。 「…う…わ、わかんないよ!あんたが良かったんだよ!」 「おろちとか妥協した奴らの中で?」 「な、なにが言いたいんだい!」 「しいなは、色々諦めて俺と結婚したのかなって思って」 冷たく言い放ったゼロスは、ちゃぶ台の対角線上にいるしいなの横に迫ってきて、どさりと畳の上に彼女を押し倒した。弾みでしいなの湯呑みが倒れて、茶がちゃぶ台の端からぽたぽたと落ちる。 「昼間、あんな顔見せられて、平常心でいられると思うか?」 ゼロスは冷たい顔をして、しいなの両腕を片手で掴みあげると、しいなの頬を反対の手でそおっとなぞる。その手の感触にぞっとする。 「三十路手前の人妻だってのに、ロイドの前でまだ恋する乙女みたいな顔して…」 冷たい顔をしていると思ったゼロスの顔はよく見ると苦しそうに歪んでいて、今にも泣きそうだった。 「俺は一生あいつには適わないのか…?」 しいなはやっと理解した。 確かにロイドはかつての想い人だ。だが、今はかけがえのない仲間の一人にしか過ぎない。昼間にあったロイドに対してまったく昔抱いていた恋情が蘇っていたりなどしていなかった。だけど、妙なところで自信の無いこの面倒くさい夫は、ただの仲間と談笑する顔でさえ、なにか想いを秘めたものに見えてしまったのだろう。鈍感だと言われる自分でも結婚して三年も経つ相手の心の動きくらい分かる。問題はどうやってこの男を納得させるかだ。 しいなは務めて冷静に一言目を放つ。 「アホゼロス」 ゼロスはムッとした。しいなの両腕を拘束する方の手に力を込めたようで少し痛い。 「あたしが結婚するほど好きで選んだのはあんたなんだよ」 ゼロスは豆鉄砲を食らったような顔をして、少し眉間の皺を緩めたが、まだ納得してないような様子だった。 しいなは顔を傾けて、頬に乗せられたゼロスの手のひらに口付けをした。 「妥協とかじゃなくて、あんたが良かったんだ」 しいなは自分が口下手な自覚はある。だけど、誠心誠意伝えることはできる。それで、ゼロスの複雑に屈折した卑屈さを全て溶かすことが出来るとは思ってなどいないが、少しでも彼の心に届いてくれればいい。 「はぁー」 ゼロスは突然息を吐いて、顔を伏せて両手の拘束を解いた。そして、しいなの身体の上に体重をかけないようにゼロスの体躯を重ねてきた。 「ずるい、しいなは」 「なんだい」 顔はしいなの横で伏せられているから表情は読み取れない。 「分かってるんだよ、もうお前があいつを想ってないことくらい。だけど、あんなふうに楽しそうにされるとどうしても不安になっちまう…かっこ悪ぃなぁ」 「そういうあんたを選んだのはあたしだ」 「あぁもう!アホしいな!」 ゼロスは乗せていた身体を少し起き上がらせると、しいなに口付けをした。 「そういうこというと、襲っちまうぞ!」 「そういうこと言って欲しかったんじゃないのかい?」 「…あぁ!もう!」 ゼロスは完全に起き上がってしいなに背を向けて胡座をかいた。 「俺様超かっこ悪ぃ…」 しいなはゆっくりと身体を起こすとゼロスの背中に身を寄せた。 「ばーか」 あんなに障子を朱に染めていた夕日はもう沈んで、部屋はすっかり暗くなっている。明かりをつけなければ、と頭に浮かんだが、しいなはいじけた夫の背中の体温をもう少し感じていたかった。せめて、体温を感じる場所が彼の腕の中に変わるくらいまでは。

公私混同は愛憎だけ

口紅は落ちる過程にこそにドラマがある、とは誰の言葉だったか。 ゼロスは自分の唇に広がった紅色を乱暴に手の甲で拭った。カクシュールの背中の広く空いた、同じ紅色のドレス姿のしいなが腰を抜かして、口元に手を当てている。その唇はやはり周りのメイクに対して薄く見える。ともすれば、ゼロスの手の甲に着いた色と同じくらいだ。 「誰の差し金だ?」 しいなはハッとするようにゼロスを睨んだ。 「誰って里の任務だよ」 「お前がこんな下品な色仕掛け紛いな仕事しないようにあらゆる手は回してきたつもりだったんだけどな」 「色仕掛けじゃないよ!情報収集で」 ここはレセプションセンターのゼロス専用の控え室である。その隅でしいなはうずくまったままゼロスを睨みつける。 「とにかく、あたしは仕事なんだ、失礼するよ」 立ち上がって早足で部屋を出ようとするしいなを当然ゼロスは阻む。カクシュールの肩を引っ張って下着を丸出しにする。 「ちょっ!ばか!」 しいなは乱れを直そうとするが、その前にゼロスに抱きとめられてしまう。 「仕事とかの前にさ、お前、おれのものだろ?前にこういう仕事もうして欲しくないって言ったの忘れたわけ?」 「離しなよっ!だから、あんたが思ってるような事じゃないんだって」 「こんなエロい格好俺の目の前以外禁止。だから、こんな格好での仕事なんてもってのほか」 「…そんなこと言われても…懇意にしてる取引相手からのプレゼントだから着ない訳にはいかないし」 しいなの乱れた方からタグが覗いている。メルトキオでドレスから平服まで扱うブランドだ。そのブランドのスポンサーはある伯爵だった。 ゼロスはピンときた。世界統合前から、和平の使者を初め、表立った仕事の増えてきたミズホの里はメルトキオの貴族が利用することがあった。用途は産業スパイから浮気調査まで。そんなミズホをここ最近よく利用するようになった伯爵がいる。その伯爵はゼロスの目から見てしいなに対して明らかな下心をもっていた。あいつだな。 「お前、俺がいいって言うまで今日はここから出るな」 「は?」 「その取引先分の金は出すし、いい筋の仕事は紹介するから、何にも心配せずにお前は全てが終わるまでここで待ってろ」 ゼロスはしいなをソファに突き飛ばし、部屋の外に出る。 「ちょっとゼロス!」 ゼロスはしいなの声を無視して外鍵をかけて完全に閉じ込めてしまった。 ゼロスはどう落とし前をつけるか頭をフル回転させた。そして出方を決めると獲物を狩るような気持ちで、少しの怒りを胸に秘めてパーティー会場にいる伯爵の元へと向かった。 突き飛ばされた柔らかいソファで扉に鍵がかかる音を聞いた。ゼロスはここにいろと言ったが、しいなは仮にも忍びなのだ。無理やり鍵抜けして脱出できる。 しいなはソファに身体を沈み込ませて身を震わせた。 抜け出すことは出来るが、先程のゼロスの鋭い目つきを思い出すと、抜け出したあとどうなるかが怖くて抜け出す気がおきない。関係が悪化するのが怖いのか、報復が怖いのか分からないが、彼に逆らう気が起きなかった。 ゼロスは今この瞬間ミズホにとって太客の伯爵との繋がりを絶とうとしている。今止めに行かなければ、取り返しがつかないことになる。そう頭で理解しているのに、ゼロスの眼差しを思い出すとどうにも身体が動かないのだった。 しいなはずれたカクシュールを肩にもどすと、ぼんやりした頭で仕事よりも恋人を取ってしまった自分を認めざるを得なかった。 一時間くらいソファに身を沈めていただろうか。 外鍵が開く音がして扉が開いて、ゼロスが颯爽と入ってきた。後ろ出て扉をしめると、内鍵を閉めた。 「ナシつけてきた。もうお前があいつと関わることはねーから」 「そうかい…」 しいなは反論する気が起きなくて、力なく返事をした。 「さっきまでの威勢はどうした」 「もう、あきらめたんだよ」 「そ?どっちでもいいけど」 抑揚のない声でそう言ったのと、まだあの鋭い瞳をしているから、ゼロスはまだ怒りを持て余しているのだと、しいなは悟った。 「ところで、なんでまだそれ着てるんだよ」 しまった、と思った時には遅く、せっかく直した肩元をずらされ、さらにゼロスはスカート部分のチャックを引き下げてしまった。怒りの向け先は伯爵から贈られたドレスにうつったようだ。 座っているから、スカート部分はぎりぎり身体に引っかかっている状態だ。ゼロスはしいなを肩に背負いあげると、スカートを引き抜いてしまった。そして流れるように、完全に下着姿になってしまったしいなをソファに組み敷いた。 「新しいドレス持ってこさせる。けど、その前に、いいよな?我慢できねぇ」 しいなはゼロスの残りの感情が欲情に変わって、自分に向いていることに気づいた。しかし遅かった。彼の手はしいなの肢体に伸びていって、しいなの全ては暴かれてしまった。 ドレスが部屋に届いた頃には、しいなの息は絶え絶えで、起き上がる気力さえ起きていなかった。 ドレスを届けたワイルダー家の使用人は部屋で主人が何をしていたか分かってしまったかもしれないが、気づいていない振りをするのだろう。 仕事を恋人にコントロールされ、身体も思うようにされて、これは健全な関係と言えるのだろうかと散らばった下着を拾い集めて身につけながら、考えていると、乱れた服を整えたゼロスが見慣れないドレスを持ってきた。 ホルターネックにフレアスカートのドレスで全体はマルベリー色で胸元には小ぶりな可愛らしいコサージュがあしらわれている。 「プライベートだけじゃなくてビジネスまで束縛するなんて、だせぇと思ってるよ」 はぁと大きなため息をついて、右手で顔を覆う。 「だけど、いやらしい目で俺以外の男に見られるのは我慢できねぇし、譲れねぇ。他の仕事には絶対手出さないから安心しろ。あと……頭冷やしてくるから、それに着替えて待ってろ。三十分後に迎えを寄越させる」 ゼロスは部屋を出ていったが、しいなは新しいドレスを肩にかけられたまま、空中を見つめる。 自覚していなかったが、ソファの中でゼロスはあの伯爵が自分に色目を使っていたと言っていた。最初は訳の分からないまま仕事を掌握されたばかりだと思っていたが、彼は彼なりの理由で動いていて、筋は通っていたのだ。公私混同しためちゃくちゃな筋だが、愛されているが故の筋であるから、事態を把握してない段階で仕事より恋人を取ったしいなはゼロスを許すほかなかった。 しいなは三十分後に迎えが来ることを思い出して、急いで新しいドレスに着替えた。  

昔の取り巻き

しいなは布団から手を伸ばすと行燈の灯を最小限で抑えて灯した。なかなか眠れないから土間へ水を飲みに行こうと思い、半身を起こして布団から抜け出そうとしたところだった。 「眠れねぇのか?」 横に敷かれた布団で眠っていたはずの夫であるゼロスが尋ねてくる。 「起こしちまったかい?悪いね」 「昼間のことか?」 「……」 それは昼間の出来事だった。ゼロスの放蕩時代の取り巻きが一人、わざわざメルトキオの人間にとって場所も定かではないミズホまでやってきたのだ。なぜ場所がわかったのかと言うとメルトキオに潜伏しているミズホの民に金を詰んだ結果だという。 そうまでしてミズホに来た彼女の目的はゼロスだった。貴族同士のしがらみの縁談から逃げてきて、ゼロスの愛人になりたいと彼女は言った。そのためならミズホの民になってどんな下働きでもすると。しいなが一番だとわかっているから、二番目になりたいと。 もちろんゼロス本人が放蕩時代にはなかった誠実さで丁重に断ったのだが、その話はもつれて終わらなかったので、翌日に持ち越しとなった。彼女はミズホに泊まることになったのだ。当然の事ながら、彼女の宿はゼロスとしいなが居を構える頭領屋敷の客間になる。部屋数が1番多い建物であると同時に滅多に来ない客のための間が唯一あるということもある。 客間は夫婦の寝室の反対側にあるのですぐ隣の間で襖越しに気配を感じる、という訳では無いのだが、しいなは今までの裕福な暮らしを捨ててまで妾でよいからゼロスのそばに居たいという女性が同じ屋根の下で眠っているのが、気になって眠れなかった。 「すべて投げ出してあんたのものになりたいんだってね」 「ああ…でも俺様は断ったんだぜ。昔と違って今は俺様にはしいな一人に注ぐ愛情しか今は持ち合わせてないしな」 ゼロスは行燈でかすかに浮かび上がるしいなの横顔を凝視する。しいなにとってきっと嬉しい素直な気持ちを言ったはずなのに、彼女の表情はどこか昏い。 「…負けたなって思ったんだよ」 「…は?」 「あたしは全て捨ててあんたのもとに来れるかって言われると、里のこととかあるし、到底選べない。それだけど、あの子は…」 「俺様はそういうしいながいい」 布団から半身起こしたしいなを後ろからゼロスは抱きしめる。 「それとも、しいなはあの子に同情して、愛人にして欲しいわけ?」 「それは、いやだ!」 夜中だというのに、しいなは少し大きな声ではっきりと言ってしまった。それはほとんど反射的だった。 「嬉しいね、しいなの滅多に感じられないむき出しの独占欲」 「茶化してんじゃないよ」 しいなはその独占欲を自覚していた。茶化してることにでもしないとゼロスの言うところのむき出しの独占欲が暴走してどうにかなりそうだった。 「茶化してないぜ、本気で嬉しいんだから」 「……ほんとに?」 しいなは胸の下あたりにまわされているゼロスの腕にそっと触れて、優しく緩めた。そしてくるりと身体の向きを変えてゼロスの心地よい匂いのする胸板に顔を押し付けて背中に手を回した。 「あんたが嬉しいっていう独占欲、満たされるまでこうしてて」 「これだけでいいの?あの子がいるひとつ屋根の下でもっとすごいことしてもいいんだぜ」 しいなは上目遣いで瞳をうるませながら、ゼロスの気崩れた浴衣からのぞく鎖骨にキスを落とした。それは夫婦になってからの夜伽の合図だった。 「……これは、激しくしちゃうかも」 結局、元取り巻きの彼女は翌日早朝にゼロスを諦めるという旨の置き手紙を残してパイプ役になっていた民とメルトキオに帰ってしまった。 頭領屋敷の一晩の間に彼女にどういう心境の変化があったのか誰も知らない。